『能動的マツタケ』
大槻星奈
野菜は収穫される。山菜は採られる。マツタケは狩られる。
マツタケは野生動物と同じく"狩られる"のだ。動物のように生きていないのに。
マツタケは生きている。誰よりも。
神出鬼没で人間に作られる存在とはなり得ず、どこに生まれるかさえ分からない。条件が重なり菌糸が結びつきようやく生まれてもなお、その姿を捉えることは容易ではない。それなのに訪れるさまざまな乾きや寒さにもめげずに沸きでる(アナ・チン『マツタケ』p.383)という彼らは誰よりも生きている。
森の中に隠れ、狩られ、一瞬で高級品として資本主義の商品となりゆく受動的なマツタケ
私たちの知っているマツタケ。
森の中に目覚め、菌糸を巡らせ、自らを価値のある存在として育てていく能動的なマツタケ
こう捉えることはできないか。
人間の失敗の結果マツタケが生まれてきたり、東南アジアにおける暴力的な伐採から繋がって今マツタケが日本にあったり。これは人間が生み出した偶然などではなく、知らぬ間にマツタケによって張り巡らされた菌糸によって引き起こされたものかもしれない。
今目の前で土瓶蒸しになっている彼が、自らの価値を試すべく人間のもとへ来たのか、しくじって人間に狩られてしまったのかは分からないが、どちらにせよ、彼らを能動的な存在として描いてみる必要があると感じた。
彼らに目と動きを与えることで、彼らの生を可視化する。

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どこに生えているかも分からない木の終わり。
でもそこに菌糸は繋がって、廻って、不意に彼は目覚める。
自らの意思で森を抜けていく。帰り道は振り返らない。
落ちた先に広がる世界。マツタケの目に映る世界。私は立つことができなかった場所に彼は立つことができる。そうして軽やかに再び外の世界を目指す。
人間が旬を過ぎたと価値を落とす傘開きマツタケだって、本当は空を舞うための形態かもしれないじゃないか。
ふわりふわりと舞って、彼はどこへいくのだろう。
マツタケに出会った
すぐそばにすぐそこにいる、でも私たち以上に、生きている
マツタケが能動的なら私は受動的かもしれない。誰かに見つけてもらって、価値をつけてもらうのを待っているだけの受動的ニンゲン。しかもマツタケほどのすごい価値はない資本主義社会の歯車。マツタケを能動的な存在にすることで、私の能動性を問う。
私がマツタケに与えた目と動きは不完全で、だけれどそれでもとても大変で。私はそれよりも、はるかに簡単に、よく見えよく動くはずだ。自分の目と動きをもう一度思い出して、能動的ニンゲンになる。

